April 04, 2011

◇フィリピンのプロビンス、Batangas (バタンガス)州、Taal (タール) の町へ [Vol. 4 Villavicencio Residence (2/2) ]


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[Vol. 3 Villavicencio Residence (1/2) ] の続きです。



前回は、Villavicencio 家の階段を上って2階左側の様子を紹介しました。 今回は右側です。 

リビングルームのある階段左側は通りに面しているのに対し、右側は家の裏側にあたります。 こちらには、ダイニングルームとキッチンがありました。




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ダイニングルーム





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ダイニングルームの調度品





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キッチン
まるで Intramuros のCasa Manila にいるみたい! ただ、Banguera (バンゲーラこちらこちら 参照) は見当たらなかったような・・・。




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洋酒のボトルがぎっしり! 





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様々な色、形の Palayok (パラヨーク=土鍋)

右の手すりは階下 (↓ の写真) へと続く階段。 キッチンから一階へ下りられるようになっています。 




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裏口を出るとガレージ、庭へと続きます。





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ガレージに置かれていたクラシックカー

エンブレムの P L Y M ・・・の文字を頼りに検索したところ、 PLYMOUTH (クライスラーが1928年に開始したブランド)の DELUXE という機種みたい。 (画像検索してみると 1940-1950年頃生産されたもののようでした。)




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庭に建てられた Glicelia Marcell Villavicencio のブロンズ像



革命運動を熱心に支援していた Villavicencio 夫妻には日頃からスペイン当局の監視の目が光っていました。 夫の Eulalio の Katipunan (カティプナン) 及び革命運動との関わりが明白になると、彼は反逆者として投獄されてしまいます。 夫の釈放と交換条件に、Katipunan に関する情報提供を要求された Glicelia ですが、彼女はそれを断固として拒否したそうです。 最終的には約一年後に Eulalio は釈放されますが、投獄が原因で3カ月後にこの世を去ります。

夫の死後も Glicelia は、船、武器、食糧、金銭等を供給し、革命軍への支援を続けました。 やがて 米西戦争 が勃発。 香港へ亡命していた Emilio Aguinaldo (エミリオ・アギナルド) は、アメリカ合衆国がフィリピンの独立に協力することを条件に帰国し、独立運動を再開します。  そして1898年6月12日、現 Cavite (カヴィテ) 州、Kawit (カウィット)の自宅 バルコニー でフィリピンの独立を宣言するわけです。

ところが、アメリカはフィリピンの独立を援助するためにスペインを破ったにも関わらず、パリ条約において2,000万ドルでフィリピンを購入し、独立を否定して自国の植民地にしようとしたことから、アメリカが新たな敵がとなります。
Gliceria は、新しい征服者との闘いにも積極的に支援を続けました。 アメリカ軍は彼女と家族を強制的にマニラに移し、厳しい監視下におき、タールの家を押収しました。 しかしその後、彼女の威信とタールの人たちが彼女に抱く強い尊敬の念を目の当たりにしたアメリカ軍は、一家をタールに戻すことを余儀なくされたということです。



・・・ 続く ・・・




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