February 04, 2016

◇ 天皇、皇后両陛下フィリピンご訪問


aguinaldo shrine 1


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1月26日〜30日の間、天皇、皇后両陛下が、日本とフィリピン両国の友好親善と戦没者の慰霊のためにフィリピンを訪問されていたニュースは、TVでもネットでも大きくとり上げられていました。 飛行場で両陛下を迎える Aquino 大統領や、式典に出席される場面など、数々の写真と共に現地での両陛下のご様子が報道されました。

報道によれば、”今年、日本とフィリピンが国交正常化60周年を迎えるにあたって招待があり、歴代天皇のフィリピン訪問は初めて。 両陛下にとっては皇太子ご夫妻時代の1962年11月以来となる” とのこと。

「へー、2度目のご訪問なのかー」 と何気に聞き流していたのですが、ネット上でそのニュースを見ていて、1枚の写真に目が留まりました。 ↓



aguinaldo shrine 6

朝日新聞 degital 版 より



あれれ、ここはもしかして・・・・





Aguinaldo  Shrine 2

ここじゃない?


やはり、そうでした。 「◇初代フィリピン大統領の記念館」 と題して、2008年6月に投稿した Emilio Aguinaldo (エミリオ・アギナルド) の自宅バルコニーでした。 Aguinaldo が1898年6月12日、フィリピンの独立を宣言したのがこの場所です。
現在この家は、 Aguinaldo Shrine (アギナルド記念館) として、一般公開されています。 


記事の写真には、「フィリピン独立のために戦ったアギナルド将軍の邸宅を訪れ、将軍夫妻と共にバルコニーから、歓迎する人たちに応える皇太子ご夫妻時代の天皇、皇后両陛下=1962年11月」 というキャプションが添えられていました。


そういえば、アギナルド記念館を見学した際に、そのうちにアップする機会があるかも、と撮った写真があったはず・・・。 



Aguinaldo  Shrine 3




Aguinaldo  Shrine 4




Aguinaldo  Shrine 5


これらは、2007年6月に撮影したものです。 現在も同じものが展示されているかどうかは不明ですが、アギナルド記念館を訪れる機会があれば、探してみてください。



Wikipedia の Aguinaldo の項に以下のような一節があります。

日本の明仁皇太子と美智子皇太子妃が1962年11月5日から5日間の日程でフィリピンを訪問した際に、93歳になっていたアギナルドは一時、病気療養から退院して1962年11月7日に皇太子夫妻をカヴィテの自宅に迎え、第二次世界大戦によって悪化していたフィリピン人の対日感情を和らげた。




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Posted by harana at 14:47Comments(0)

December 31, 2014

◇ 親族が綴るフィリピンの英雄


rizal

《 Rizal Park 》

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いつの間にか今年ももう師走、教師でなくても走り回るくらい忙しくて、ブログ更新もままならないと思っていたら、とうとう大晦日になっちゃいました。 (^ ^;

今年最後の投稿は、当ブログ年末恒例 「フィリピンの英雄」 ネタです。

一日出遅れてしまいましたが (^ ^; 、昨日12月30日はフィリピンの国民的英雄 Jose Rizal (ホセ・リサール) の死を追悼する 「リサール・デー」 でした。  それにちなんで、 RIzal 絡みの一冊をご紹介。 



rizal's true love 1

Rizal's True Love


Rizal の親族である Gemma Cruz Arameta によって書かれたエッセイ集。 P国では学校の授業で Rizal について学ぶそうですが、このエッセイ集には授業では知りえない Rizal の一面も綴られているとか。 親族意外にはできない業でしょうね。




rizal's true love 2

著者は、Lim マニラ市長時代の側近、Erap 大統領時代の観光省長官、Manila Historical and Heritage Commission (歴史遺産委員会?)の副議長など数々の名誉職を経験していますが、それ以前に、ミスインターナショナル入賞者で、国際ビューティーコンテストにおいてタイトルを勝ち得た最初のフィリピーナなのだそうです。
カバーデザインも親族の一人によるものだとか。


まだ走り回らなければならない状況なので、これ以上の説明ははしょります。 (^ ^;
目次でごまかしますが、あしからず。 m(_ _)m


rizal's true love 3




rizal's true love 4




rizal's true love 5




あ、そうそう。 最後にこれだけはお伝えしておきます。

rizal's true love 6

読みやすいようにと、フォントは Arial 14 がを使用されています。 読みやすいです、確かに。 (^_^)


最初にこの本のタイトルを見た時の、「英雄 Jose Rizal の恋愛事情が綴られているのか?」 という下世話な想像とは裏腹に、彼の真の愛、つまり母国への、国民への彼の深い愛情を伝えるべく生み出された作品ではないかと思われます。

新年を迎えるにあたり、P国ファンのみなさん、P国の歴史と英雄について、今一度学び直してみるのもいいのではないでしょうか? 


Jose Rizal に関する過去の投稿もご参照ください。

 ◇フィリピンの英雄をとり囲んだ食環境
   (2012/12/31)

 ◇国民的小説をモチーフにした "フィリピン料理レストラン"
   (2011/12/31)

 ◇フィリピンの英雄の日
   (2007/12/30)

 ◇フィリピンのホットチョコレート ” Tsokolate(チョコラーテ)”
   (2006/12/30)

 ◇フィリピンの英雄
   (2005/12/30)





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本年も当ブログにお立ちよりいただきました多くのリーダーの皆様、ありがとうございました。 2015年もどうぞよろしくお願いいたします。

Happy New Year !

Manigong Bagong Taon !





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Posted by harana at 13:42Comments(0)

June 13, 2014

◇ 第116回 フィリピン共和国独立記念日



kalayaan 14

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昨日6月12日は、フィリピンの第116回目の独立記念日でした。 フィリピン本国のみならず、世界各地に住むP人達のコミュニティーがこの日を祝ったことでしょう。

ここ関西では、神戸元町の相楽園会館にて、在大阪ー神戸フィリピン領事館主催による 「フィリピン共和国独立116周年記念ランチレセプション」が開催されました。 

開催日ギリギリでしたが(笑)、 私にも招待状が届いたので参加させていただきました。





では、プログラムに従って、レポートです。  あっ、その前にこちらを↓


116th Anniversary of the Declaration of
Philippine Independence

Theme (テーマ)

Pagsunod sa yapak ng mga dakilang pilipino,
Tungo sa malawakan at permanenteng pagbabago.

フィリピン独立の礎、先人たちの足跡に続き進みましょう。
私たち全ての国民のための、たゆまぬ発展をめざして。


* * *

- プログラム -


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フィリピン日本両国歌演奏





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開会の辞 : 在大阪―神戸フィリピン共和国領事館
総領事 Maria Teresa L. Taguiang 氏


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ビデオプレゼンテーション、フィリピンから世界へ”ありがとう”

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昨年の台風「ハイヤン」の被害支援へのお礼の声が流されました。



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スピーチ:在日フィリピン共和国大使館
駐日フィリピン共和国特命全権大使 Manuel M. Lopez 氏


*


スピーチ:兵庫県知事 井戸敏三 氏 (写真省略)


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スピーチ:神戸市長 久元善造 氏  (写真省略)


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乾杯の辞:外務省大阪分室関西担当大使 三輪昭 氏


*


ランチレセプション開始

  
kalayaan 13

立食用のテーブルには、フィリピン素材でデコレーションされたお花と San Miguel ビールが並びます。




お料理はほとんどが洋食とお寿司やお刺身等の和食でしたが、少量ではありながらもフィリピン料理のコーナーが設けられていました。



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壁面をマスカラでディスプレイしたフィリピン料理コーナー




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上左: Lechon Kawali (豚バラ肉のカリカリ揚げ)
上右: Halo-Halo (国民的デザート、P版カキ氷)
下左: Pork & chicken Adobo (国民的料理 アドボ、ポーク&チキンミックス)
下中: Kilawin (魚の酢ジメ。 一人分ずつの盛り付けがにくい)
下右: Mongo Soup (緑豆のスープ、malunggay 入り!)

写真が撮れていませんが、あと2−3品並んでいました。


実はこれらのフィリピン料理は、この日のために本国から招聘したフィリピン人シェフの手によるものでした。 なんとそのシェフ、P国版 Iron Shef (料理の鉄人) の優勝者だそうです。
しかも、食材はほとんど本国から持ち込んだという、力の入れよう。 

Mongo soup にどうみても Malunggay にしかみえないグリーンが入っていたのにびっくり。 日本にはないはずなので、確かめてみたらやはり Malunggay、持参したそうです。

Halo-Halo は、Halayang Ube (紫芋の餡)や、Nata de coco などの具材を持ち込むのは想像がつきますが、なんとミルクまでP国製品。 缶にいれて持ち込んだ Carabao (水牛)のミルクだったようです。 そういわれれば普通に飲んでいるミルクほど濃くはなかったな。 いやー、徹底してますねー。 それに pogi (イケメン) なんです。


見たい? (^_^)








kalayaan 09



・・・ 続く ・・・





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Posted by harana at 17:54Comments(0)

January 22, 2014

◇ フィリピンの記念切手になった料理人母娘


stamp 7


約一ヵ月のご無沙汰です。 (^ ^;
遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。 m(_ _)m

年末年始の慌ただしさ+風邪をひいたのをいいことに、更新をさぼっていました。 一旦さぼるとさぼり癖がついちゃいますね。 (^ ^;

おさぼり中も、当サイトに訪問いただいた皆様、ありがとうございました。 以前のペースに戻すにはやや時間がかかりそうですが、ぼつぼつと再開していこうと思います。


年明け第一弾のネタは、ちょっと珍しい 「切手」 のお話。  「切手」 には特に興味があるわけでも、詳しいわけではないのですが、P国の食に関心を持つ者にとっては、放ってはおけない情報ではあります。  まずはこちらをどうぞ。↓


stamp 1

Decade of Filipino Nationalism (Great Filipinos), Series IV


「フィリピンの偉人シリーズ IV」 とでも題したらいいでしょうか。 1992年6月1日に発行された記念切手シートです。 Manuel Roxas (第5代大統領)、 Natividad-Lopez (初の女性判事)、 Roman O. Ozaeta (元最高裁判事)、Fernando Amorsolo (国民的画家) と肩を並べておさまっている右から2番目の偉人をご存知でしょうか?  多分、かなり以前に当ブログのどこかに書いたような気がしますが、 マニラのランドマークとも呼べるべき Aristocrat レストランの創業者 Engracia Cruz-Reyes です。 (1938年創業)


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当時は、外食といえばスペイン料理や中華料理であり、まだフィリピン料理のレストランの存在はおろか、フィリピン料理自体が外食とみなされていなかったと言われています。 ですから、フィリピン料理のパイオニアであり、フィリピンの外食産業の草分け的存在であった彼女は、「フィリピン料理の母」 としてその功績を称えられ多くの栄誉を手にしています。 この切手は、彼女の生誕100周年に発行されたものです。



そして、更に見ていただきたいのが昨年、2013年2月11日に発行されたこれ ↓

stamp 8

RP Stamps and Postal History より


Teresita "Mama Sita" Reyes の10ペソ切手! あのインスタントミックスでおなじみ、Mama Sita's ブランドの Mama Sita こと Teresita Reyes も切手になっちゃったのです。 これも何回も書いてるような気がするけど、Mama Sita は Aristocrat 創業者の娘。 つまり親子2代で切手になっちゃったのです。 


時代のせいでしょうね、Mama Sita 版は母上のよりもかなり洒落ています。 上段には Souvenir Sheet、下段には First Day Covers: Manila と記載されています。 「何のこっちゃ???」  切手に関しては知識がないので、早速ググってみました。 ネットって本当に便利! ちゃーんとヒットするのですから。 (^ ^)

Souvenir Sheet とは: 英語の Miniature sheet もしくは Souvenir Sheet は、日本語では 「小型シート」 と呼ばれている切手シートのようです。  以下 Wikipedia からの抜粋です。
主に切手収集家向けに複数枚もしくは1枚の切手を大きな余白(耳紙-みみがみ)で囲んだ形態で販売されるスタイルのものを、小型シートと呼んでいる。多くの場合は記念切手もしくは特殊切手のひとつとして発行される場合が多い。
小型シートは郵便で使われることなくコレクションアイテムとして死蔵されることを想定している場合が多いため、時には無目打(穴を黒い点として印刷される場合がある)となっているものも少なくない。デザインもバラとして発行された切手を組み合わせたものから、シート地もふくめ一つのデザインとして発行される事がある。後者の場合には小型シートの形式のみで発行される場合が多い。
お年玉付き年賀葉書の景品でもらえる 「切手シート」 がそれですね。


では、First Day Covers とは: First Day of Issue cover または、First Day Cover は、日本語では、「初日カバー」。 以下同様に Wiki からの抜粋です。
郵便切手の発行初日に、その発行日当日の消印が押された封筒類のことである。 切手収集家や記念品収集家を対象とした郵趣品(記念品)である。 英語では"First Day Cover"と呼ばれていることから、その頭文字をとってFDC(エフ・ディー・シー)とも呼称される場合も多い。 
この封筒は、切手収集家が自前で用意する場合もあるが、郵政当局ないしその関係機関もしくは民間の切手収集家を顧客とする切手商や美術商が、その切手にちなんだデザインを印刷した封筒を作成して押印する場合が多く、現在では後者の手段で製作したものを初日カバーと呼ばれることが多い。


実際の First Day Cover がこれ

stamp 4

伝統的キッチン Banguera (バンゲーラ)、capiz window (カピス窓 =カピス貝の格子窓)、Palayok (パラヨーク=土鍋)、そして背景に描かれているのは Mama Sita が訪れた諸外国の風景でしょうか。





実は、こんなものをゲット (*^_^*)/

stamp 5

Mama Sita 財団の手によるこれの



中身は・・・


stamp 7

開くと、中央に Souvenir Sheet と First Day Cover が一枚ずつセットされていて、左側には Mama Sita の子孫たち Reyes ファミリーからのメッセージ、右側は両面に Mama Sita の生い立ちや経歴など。 これは貴重だ〜! 大事にしますぅ。




あと、せっかくならと、こんなものを自腹で大人買い。

stamp 3

40 枚つづりのシート。 もったいなくて使えなーい。

ってか、よく考えたらP国でしか使えないよね (^ ^;




stamp 6


この記念切手を発行するにあたっては、NHCP (The National Historical Commission of the Philippines=フィリピン国立歴史委員会?) のバックアップがあったようで、NHCP も 「フィリピン料理と、フィリピン料理に伴う調味料の使用を大衆化した Teresita Reyes の役割は大きい。 その偉業をなくしては、フィリピン食文化史は語れない。」 と彼女の功績を称えています。

確かに、インスタントソースミックスは、現地スーパーマーケットでも売り場スペースを結構占めていて、海外在住P国人のための輸出用のみならず、国内でも随分重宝されていますね。

Mama Sita 亡き後も、Mama Sita's ブランドの製品は子孫たちによって受け継がれ、次々と新製品が生み出されています。 それらはできるだけここでご紹介していければ、と思っています。 




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Posted by harana at 10:27Comments(0)

February 15, 2010

◇ フィリピンのチャイナタウン "Binondo(ビノンド)" 地区・食べある記 [ Vol. 2 Binondo Church (ビノンド教会) ]


binondo church 1


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[ Vol. 1 からの続きです。 ]



フィリピンのチャイナタウン、Binondo (ビノンド)地区のランドマーク 

Binondo 教会。 (別名 Minor Basilica of St. Lorenzo Ruiz)



1596年、ドミニコ修道会により建てられたこの教会は、たび重なる

暴動、砲撃、火災、地震等により、幾度もダメージを受けてきました。

現在の姿は、1946年から1971年の間に再建されたものだそうです。





binondo church 2



ホーリーウォーター(聖水)を抱える天使像が

置かれているのは、エントランス・ロビー





binondo church 3


場所柄、ミサはフィリピン語のみならず、中国語でも行われるそうです。




binondo church 4


Binondo 教会と、道路を隔てて位置する Plaza Lorenzo Ruiz という広場

(別名 Plaza Calderon dela Barca) は、対をなすように存在しています。



この教会の守護聖人は、フィリピンで最初の聖人 Lorenzo Ruiz。

教会の別名も、広場もこの聖人にちなんで命名されたことがうかがえます。
 




binondo church 5


広場に建つ Lorenzo Ruiz 像。

* * *


Binondo に生まれ育ち、Binondo 教会内で職についていた Lorenzo Ruiz ですが、なんと彼は 1637年9月29日、日本で殉教していたのです。 殉教、つまりキリスト教の 「自らの信仰のために命を失ったとみなされる死」 です。 キリスト教徒が迫害されていた16世紀末から17世紀初めの日本では、多くの外国人宣教師や日本人信者が殉教しました。 拷問の末に残酷な処刑方法で殺されたのです。 彼もその中の一人だったとは・・・。

カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信徒には福者という称号が与えられる。(この称号を受けることを列福という。) 厳しい審査を終えて、教会により福者の位置に加えるのがふさわしいと判断されると、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂において列福が宣言される。通常、列福式はバチカンで行われる。例外的に初めてバチカン以外で行われた列福式は1981年にフィリピンのマニラで行われたフィリピン人初の福者(のちに聖人)であるロレンソ・ルイスの列福式であった。 − Wikipedia より抜粋 −


1981年のマニラで行われた列福式というのは、日本を含む各国を公式訪問中のローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世 によるものです。


* * *

ところで Lorenzo Ruiz 像の後ろ(↑)には何やらカトリックとは

そぐわない物体が。 なにしろ、ここはチャイナタウンなので・・・。 

「ミスマッチの図」 は、別アングルでもほらこの通り(↓)



binondo church 6





こちら(↓)の方が、明白かも。



binondo church 7



食べて歩いて、チャイナタウン ”ウォーキング・ツアー” は、

ここ Binondo 教会を皮きりにスタートしたのでありました。



・・・ 続く ・・・




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Posted by harana at 13:34Comments(0)

June 12, 2008

◇初代フィリピン大統領の記念館


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フィリピン共和国の初代大統領、Emilio Aguinaldo (エミリオ・アギナルド) は、

1898年6月12日、フィリピンの独立を宣言。


その場所がここ。 現 Cavite (カヴィテ) 州、Kawit (カウィット) にある

アギナルドの自宅バルコニー(↓)。


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《 kalabaw (カラバオ=水牛)までいます 》



現在も6月12日は INDEPENDENCE DAY (独立記念日)とされています。


本来この日は休日に制定されてるところを、今年は6月9日を休日に

振替えたため、平日になってしまいましたが、今日もこのバルコニーで

フィリピン国旗が振られ、記念式典が執り行われていることでしょう。

(写真は、去年 撮ったものです。)


* * * * *



記念式典はさておき、この家は Aguinaldo Shrine (アギナルド記念館) として、一般公開されています。 

ここには昨年P-ナフレンドと一緒に行ったのですが、彼女の娘は「学校から何度も行っているからもういい」、と同行を拒否。
フィリピン人にとっては何度も訪れて、もうウンザリなのかもしれませんが、よくありがちなお堅い博物館や資料館のような施設かと思いきや、それが意外にもあちらこちらに様々な工夫が凝らされていたりして、結構面白い家でした。


アギナルドの立場上、危険とは隣り合わせ、常に敵から身を守る備えがあったのでしょう。 大げさかもしれませんが、「カラクリ屋敷」のような仕掛けも設けられていました。

例えば、この家にはいくつもの秘密の通路があるそうです。 

クロゼットにも秘密の通路に通じる隠し扉があります。

キッチンのテープルは、重そうな天板が持ち上がるようになっていて、その下はシェルターへ続く抜け穴だったり(↓)、

aguinaldo-7


トイレの庭側に面した壁が、実は開け閉めができる扉(非常口)だったり、

カモフラージュ用のドアがあったり・・・。

あと、椅子やキャビネットには、重要書類や武器を隠すための秘密の仕切りがしつらえてあるそうです。(これは確認できませんでしたが)


カラクリではないですが、折りたたみ式花台もありました。 壁に厚い一枚板が取り付けてあって、普段は壁に沿ってたたまれてますが、それを倒すと花瓶が置ける仕組みになっていました。


(仕掛けの写真、ほとんど撮ってなかった。しまった!)



何も知らず見学だけしていると、まったく気づかないようなお楽しみがいっぱいです。 子供の遠足気分で、訪れてみるのもいいかもしれません。



(まだ紹介しきれていない。 続く・・・かも)


  
Posted by harana at 10:06Comments(0)

April 22, 2008

◇マニラ航路のガレオン船 - フィリピンの征服と太平洋


manton-1
《 スペイン・Sevilla にて 》

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book-galleon
 ■ マニラ航路のガレオン船
   - フィリピンの征服と太平洋

  ・著者: 伊東章
  ・出版社: 鳥影社
  ・サイズ: 単行本
  ・ページ数: 584p
  ・発行年月: 2008年04月
  ・ISBN:9784862651259



↑今月発行されたばかりの新刊書です。 ネットで見つけて飛びついて買ってしまいました。
マニラ−アカプルコ間の ガレオン貿易 について、というか、アカプルコに到着後スペインに渡った貨物について、何か情報が得られないかと期待して。

ところが、それ以前にこの本の著者と私の思考回路にはどうやら大きな違いがあるようです。 1ページ目から進めません。 一行一行、文脈が読み取れなくて・・・。

理解できないのは、文章だけではなく、「人名」、「地名」、「単位」・・・。
これは果たして一般書なんだか、どうなんだか??? 

・登場人物がどこのどういう人なのかわからない。 
・地名(特に諸島の名前)がどこにあるのかわからない。 
・当時の単位(多分「距離」とか)がそのまま書かれているので、現在使用されている単位に換算してどれくらいなのか見当がつかない。

注釈らしきものも見あたらないんですよね。 当時の歴史的背景に精通した人を対象として書かれた専門書なのかも???

なので、適切なコメントができません。 以下、楽天ブックス から引用します。



【内容情報】(「BOOK」データベースより)

インディオたちの血と涙が支えた「ガレオン船のロマン」の真実。大航海時代から今日にいたる、世界の基本構図を明らかにする。


【目次】(「BOOK」データベースより)

歯茎や足が爛れて腫れる―先立つ二つの航海/的に当たるのは外れますように―長い休息/行政院の封印し密封した指示書―出帆/兵士たちへ体を提供する―セブ島領有/最高で三十九度半前後へ上る―黒潮の発見/きっと首を括るに違いない―反乱/徴収は飢えて喧嘩するより骨が折れる―委託開始/野蛮人に食われないようにし給え―グァダルカナル島の発見/お伽のようなマニラの大きさ―ルソン島の征服/おい、俺がお前らのご主人さまだ―サラザール司教/神の法からはるかに遠い―年貢取り立て/四百八十レグア航行すると―オーストラリアの発見



*最近、「Amazon」 より「楽天ブックス」をよく利用しています。 指定したコンビニ(ファミリ^・マート、サークルK)で受取ができて、通常は1500円以上送料無料ですが、コンビニ受取便だと、本の金額に関係なく送料無料なので。(詳しくはこちらを → 【楽天ブックス@コンビニ受取便】)




* * * * *


↓ これについて、何か情報が得られないかと期待していたのですが・・・。


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Manton de Manila (マントン・デ・マニラ)・ 2008/02 》


Sevilla は、街中マントンだらけでした。 そして Córdoba も。



「いったい何のことだ???」と思われた方は、以前の投稿記事、

《◇フィリピン、マニラ の”ショール” 》 をどうぞご覧ください。


  
Posted by harana at 10:34Comments(11)

December 30, 2007

◇フィリピンの英雄の日


rizal 1



Rizal Day - フィリピン独立運動の闘士にしてフィリピンの国民的英雄、Jose Rizal(ホセ・リサール)が志半ばにして捕らえられ、スペイン軍の手で銃殺された日。

暴動の扇動容疑で銃殺刑が宣告されるも、リサールの人物を惜しんだスペイン人官吏が、国を出てキューバで医療奉仕するなら処刑は取り消せると提案したが、リサールは断り、故国のために死ぬ事を選んだ。

1896年12月30日、マニラにてホセ・リサール銃殺。 [wikepidia より抜粋]




クリスマスもそうですが、この日を迎えるのもブログを始めて3度目。

毎年同じネタは使えない・・・。


今年はご本人の肖像画でも掲載しておこう。


rizal 2

《 イントラムロス・ Fort Santiago 内 リサール記念館にて 》




で、ついでに銅像も。


rizal 3

《 リサール公園にて 》




もう一つついでに「フィリピンの英雄」の銅像を撮る日本人らしき人物入りも。



rizal 4

(撮った写真は、ネット上に存在するかも。 これ とか、これ かな?)







過去の同じ日の投稿記事もどうぞ。


・2005年
[◇フィリピンの英雄 ]

・2006年
[◇フィリピンのホットチョコレート ” Tsokolate(チョコラーテ)” ]





師走なので多忙です。 これにて失礼します。

よいお年を!




◆ P.S. ◆

フィリピンの皆さまへ

明日の大晦日は、本物の流れ弾にご注意くださいませ。

  
Posted by harana at 08:09Comments(11)

June 11, 2007

◇祝・フィリピン 独立記念日


independence day


6月12日は、フィリピンの INDEPENDENCE DAY(独立記念日)

通常は、お休み。 でもアロヨンが、土曜日から3連休にするために、
明日(12日)と振替で今日(11日・月曜日)をお休みにしたらしい。

お休みでない明日の独立記念日の行事はどうなるの???

ちなみに、明日(12日)上のバルコニー(初代大統領 Emilio Aguinaldo の生家)
で副大統領がフィリピン国旗をふるらしい。


* * * * *

多忙につき、きょうのところはここまでです。

続きは、近日中に。

  
Posted by harana at 21:10Comments(2)

April 23, 2007

◇フィリピンの要塞跡

マニラ、INTRAMUROS (イントラムロス=かつての城壁都市)のとある一角、

b.san diego1

階段を登っていくと、





b.san diego1

こんな所に出ました。

Baluarte de San Diego


* * * * *



この辺りは、"Baluarte de San Diego and Gardens" と呼ばれています。
ガーデンは、ウェディングパーティーの場としても利用されます。

ところで、Baluarte(バルアルテ/スペイン語)とは何???
どうやら英語では "Bastion" らしいです。
"Bastion" を Google 辞書で訳してみると、「要塞」。
「要塞」? Fort(フォート)でなくて?

Baluarte de San Diego の日本語訳はどうなるんでしょう??? 
「フィリピン 要塞」でググってみても、ヒットするのは 同じくイントラムロスの FORT SANTIAGO(サンチャゴ要塞)と、セブの FORT SAN PEDRO(サン・ペドロ要塞)ばかり。

マニラ 都市の歴史 (Ram´on Ma. Zaragoza著、城所 哲夫・木田 健一訳)によると、日本語では「サンディエゴ堡塁」ということでした。

でも「堡塁」って何? 軍事関係には疎いので、またまた WIKIPEDIA で調べてみました。

「堡塁(ほうるい・ほるい)とは、敵の攻撃を防ぐために、石・土砂・コンクリートなどで構築された陣地のことを言う。銃座、砲座、指揮所、観測所、兵舎や弾薬庫となる掩蔽棲息部、交通路、等からなる」のだそうです。 ふ〜ん。

で、この2枚目の写真は、Baluarte de San Diego(サンディエゴ堡塁)の「鋳造所」跡なんだそうです。 
ここでまた疑問。 どうしてこんな形してるの???


* * * * *


FORT SANTIAGO(サンチャゴ要塞)は有名ですが、マニラ在住の写真ブロガーさんたちのサイトでは、ガイドブックには掲載されていないような視点から撮られたサンチャゴ要塞の写真を多数見ることができます。例えば、こちらこちらこちら などが特にお気に入り。 (みなさーん、Baluarte de San Diego もアップしてくださーい。 私の↑の写真じゃ、お粗末過ぎて・・・)


★イントラムロス バーチャルマップ で、イントラムロス内名所の確認ができます。
 (Baluarte de San Diego は、マップの右下辺りです。)
  
Posted by harana at 01:20Comments(10)

November 13, 2006

◇フィリピンと直接関係はありませんが・・・

◆◆ お知らせ ◆◆

フランシスコ・ザビエル〜ザビエルが日本に遺したもの〜
(EL LEGADO DE FRANCISCO JAVIER EN JAPÓN)

JAVIER1
(↑クリックすると拡大します)

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フランシスコ・ザビエル生誕500周年を記念したイベントが開催されます。

ドキュメンタリー映画「フランシスコ・ザビエル〜ザビエルが日本に遺したもの〜」の上映と、この映画の原作「DAINICHI, la epopeya de Francisco Javier en Japon」の著者であり、同映画の脚本家・監督 ラモン・ビラロー氏の講演です。

■日時:11月17日(金)19:00 - 21:00 (開場 18:30)
■会場:大阪府立女性総合センター(ドーンセンター)5F 視聴覚スタジオ
      大阪市中央区大手町 1-3-49
■入場料:¥1,500
■申込、お問合せ:日本・スペイン文化経済交流センターEXTENSION

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フィリピンと直接の関係はありませんが、キリスト教国フィリピンと全く無関係というわけではないので、今回はこのイベントのお知らせをアップしました。

日本に初めてキリスト教を伝えたことで有名なフランシスコ・ザビエルは、宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人。

カトリック中央協議会のHP内、「日本のカトリック教会の歴史概説」によると、

わが国におけるカトリックの宣教は1549(天文18)年8月15日、イエ ズス会員聖フランシスコ・ザベリオの鹿児島渡来によって始められた。当時交通 は極めて不便であったにもかかわらず、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ 会、アウグスチノ会等の会員がインド・フィリピン等から相次いで来日し、各地 に教会、修道院、学校、病院等を設置して熱心に宣教に当ったので、教会は驚異 的発展を遂げ、1614(慶長19)年の統計によれば、聖職者150名、信徒数 65万を超え,信徒の中には公卿2家及び大名55名があった。


豊臣時代、徳川時代、キリスト教弾圧から逃れるためマニラに避難した日本人が多くいたとのこと。またこの事が日本人のマニラ移住の大きな理由だといいます。
「ザビエルの布教によりクリスチャンとなった日本人が、フィリピンに渡った」という点からいえば、間接的に繋がりがあるということになりますね。
ザビエルの布教がなかったら、日本とフィリピンの関係は違ったものになっていたかもしれません。

BOOK MANILA当ブログでは毎度お馴染み、 NICK JOAQUIN 著 ”MANILA, MY MANILA” の邦訳「物語 マニラの歴史」にもその当時の様子についての記述があります。
読んでみる価値あり、オススメの一冊です。


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October 24, 2006

◇フィリピン、MANILA(マニラ) の”ショール”

MANTON DE MANILA
manton de manila

★前回の《◇MANILA(マニラ)はフィリピンの首都ですが・・・》の続きです。

フィリピンの首都、マニラの名がつく「マニラフォルダー」、「マニラ封筒」、「マニラ麻」については、既に書きました。 
あと残るは、スペイン語で「マニラのショール」を意味する「MANTON DE MANILA(マントン・デ・マニラ)

スペイン、アンダルシア地方で盛んな「フラメンコ」の衣装の一部としても重要な役割を果たすマントン・デ・マニラ。 何故このショールにフィリピンの首都の名前がついているのでしょう?

歴史の時間に「ガレオン貿易」について習ったのを覚えていますか?
1571年(正式に認可されたのは1593年)〜1811年まで続いた、スペイン王室によるマニラ−アカプルコ間の貿易です。
アジア諸国からマニラに集められた品々がガレオン船に積まれてアメリカ大陸に運ばれ、さらにそこから大西洋を越えてヨーロッパに送られていました。

BOOK MANILA当ブログではおなじみの NICK JOAQUIN 著 ”MANILA, MY MANILA” の邦訳「物語 マニラの歴史」によると、ガレオン貿易が二つの大洋と三つの大陸を舞台に活躍していたため、当時のマニラは世界にその存在感を十分に示す都市であったといいます。
マニラ・ガレオン船はフィリピンの特産品を運ぶ事もできたでしょう。が、フィリピンでは生産していない贅沢品に需要が集中したため、ガレオン船が運んだものは、中国の陶磁器、翡翠、絹織物、香料、香木、インドの綿織物、モルッカ諸島のスパイス、ペルシャの絨毯、etc. etc. etc...
これらの極上品は、一旦マニラに運ばれて、アカプルコまで運ばれたのです。
アジアと西洋を結ぶ中継点としてマニラは東洋一の都市となったということです。

もうお気づきでしょうが、贅沢な刺繍をほどこした絹のショール、「マントン・デ・マニラ」は中国(南東部)で生産され、ガレオン船でアカプルコに送られるためマニラに集められたものだったのです。
ヨーロッパに渡ったショールは、フェミニンな女性の装いの一部として広まったようです(スペインではアンダルシア地方、特にセビージャ)。
もともとは中国で生産されたものであったとしても、「マニラからきたショール」、という意味で MANTON DE MANILA (マントン・デ・マニラ)と呼ばれるようになったというのがどうやら真相のようです。

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☆フィリピンを代表する画家 JUAN LUNA の作品にも MANTON DE MANILA が描かれています。こちらのサイトの一番上の絵がそれです。

☆ MANTON DE MANILA というタイトルのフィリピン民族舞踊があるようなのですが、こちらはまだ調査の必要があります。
Jota Paragua というフィリピンの民族舞踊は、MANTON DE MANILA を使って踊るらしいのですが、こちらももう少し調査してみます。
フラメンコのマントン色々


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註:上の写真を撮影させていただいた、フラメンコ教室 「ESTUDIO PRIMAVERA」のごとうけい子先生によると、フラメンコで使用するマントン・デ・マニラはもう少し大きく、小さなものは「マントンシージョ」と呼ぶとのこと。
上の写真のマントンは、「マントン・デ・マニラ」と「マントンシージョ」の中間くらいのサイズだそうです。
  
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April 30, 2006

◇フィリピン "BORACAY(ボラカイ)" の今昔物語

1) P.15,000 /10,000m2
2) P.700 /m2
3) P.32,000 /m2

いきなりですが、何の数字がわかりますか?

1)1970年当時のボラカイの土地の値段です。
 10,000平方メートル当り15,000ぺソ。 つまり、1平方メートル当り、1ペソ50センタボ。

2) この土地に目をつけた ELIZALDE(エリサルデ)ファミリーが 1978年、島のあちらこちらを買った時の1平方メートル当りの値段です。(現在、島の中心部にある D' MALL は ELIZARDEファミリーが所有しています。)

3) 現在の1平方メートル当りの値段。

BORACAY51970年代初頭、FREDDIE ELIZALDE は、ネグロス島からマニラに帰る途中、かつて耳にしたことのある「白砂の島」を確かめようと、パイロットにPANAY(パナイ)島に向け迂回するよう命じたということです。
彼の飛行機は、パナイ島の北端部を徹底的に探し、ついにクリスタルクリアーでエメラルドブルーの海水に囲まれた一筋の白い砂浜を見つけたのです。
それは、数千フィートもの上空にいた彼ら一行の目をも、くぎづけにするほどの驚くべき美しさであったといいます。

ELIZALDE一行は、でこぼこ道をジープニーでKALIBO(カリボ)に向かい、かろうじて現在のボラカイに渡る町 CATICLAN (カティクラン)への中間地点までたどり着いたのです。ところがそこからは道らしき道がありません。車を降り、海岸沿を歩き、雇ったバンカボードに乗ること4時間、ついに、手付かずの美しい島を発見したのです。


今回は、長くなりそうなので、続きはこちらで(→)  続きを読む
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March 14, 2006

◇フィリピン と "豊臣秀吉"の関係 − 『えっ、教科書で習った?』

BOOK N.JOAQUIN2 
 しつこいようですが、NICK JOAQUIN(ニック・ホアキン)著、「物語 マニラの歴史」についてもう少し。

 週末はフィリピンからショップ用(FILIPINIANA SELECT SHOP HARANA − フィリピン・グッズのネットショップです。) の新製品が届いたりで忙しく、読書に費やす時間はあまりありませんでしたが、少しだけ先に進むとまた「日本」とのかかわりについて書かれていました。

以下、引用します。

* * * * * * *
 〜 1591年、日本の覇者 、豊臣秀吉が、フィリピンは日本帝国の領土の一部であるから、マニラ総督府は秀吉を君主として認めよと要求している、という風聞が流れた。 マニラ政庁が結集できる海軍より強力な海軍を、日本の覇者が派遣できることを、マニラ政庁は承知していた。 そこで、マニラ政庁は和平のための使節団を派遣することを決めた。 〜 

* * * * * * *
ドミニコ会の修道士が、秀吉との和平交渉のため日本に送られ、両人は最終的に友情関係を確認しあい、これでマニラ政庁が日本から侵攻を受ける恐れはなくなった、ということです。

え、秀吉って、あの秀吉? 
マニラとかかわりがあった?

この歴史的事実って、私達の教科書に載ってましたっけ?
習っただけで、忘れているのでしょうか?

「マニラの交易船が日本へ入港するための許可を勝ち取った」、というのですから、
やはり教科書には記述されていたのかも・・・・。


まだまだ先が長い「物語 マニラの歴史」。

この先が気になるところですが、またもや今、もうひとつ荷物が届きました。
これから荷ほどきです。

今日のところは、この辺で。
  
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March 11, 2006

◇フィリピン、MANILA の”ニッポニーズ”って?

BOOK N.JOAQUIN
フィリピンの国民的作家》 で紹介した、 ニック・ホアキン著「物語 マニラの歴史」を読んでいます。

時間を見つけては少しずつ読み進めているので、かなりスローテンポです。
まだ第2部に入ったところですが、読み出すと予想以上の時間が経過してしまっていることに気づきます。

今日読んだ、第2部−2は「ニッポニーズ サン・ミゲル」というタイトルがついていました。
「ニッポニーズ?」 読み方のまま書くと、こうなるのですが、実はこれは漢字にふってあるルビです。
正確には、「日本人町 サン・ミゲル」というタイトルで、「日本人町」に「ニッポニーズ」とルビがふってありました。
ということは、当時は「ジャパニーズ」でも「ハポン」でもなく、その地域に限っては「ニッポニーズ」と呼ばれていたのでしょうねぇ。

サン・ミゲルは、DILAO(またはDILAW) 地区(ディラオ=黄色。黄色の染料になる植物の名にちなんで呼ばれた地名。日本人移民の居住地になってから更にふさわしい名になった)からフィリピンに居留する日本人へのキリスト教伝道活動における、ふたつの教団の管轄問題を避けるため、1618年に移った地。 1591年、イエズス会はディラオに日本人のためだけの特別の布教所を設け、1603年には、約500人の日本人居住者がいたといいます。

<えっ、1591年? ってことは、日本じゃ「関が原の戦い(1600年)」よりも前?>

そんな昔になぜ多くの日本人がマニラに移住していたの??? 
読みすすめていくと、わかってきました。
こんなくだりがあります。

− あらそいを避けるため、イエズス会は、自分たちの伝道師をディラオ地区から引き揚げさせた。 1618年のことだった。 このころ、「徳川幕府」のキリスト教弾圧から逃れるためマニラに避難してきた日本人はイエズス会の伝道師に引きずられるようにパシッグ河口南岸に住み着いた。

そして、なぜこの地が「サン・ミゲル」と名づけられたのか?
こう、続きます。

ー 避難してきた日本人の多くは武士だったので、移住者の中の武士をひきつけるには、軍人の守護聖人の名にあやかって教区を設けるのが名案と思われた。
だとしたら、炎の剣を手にした大天使ミカエルよりも栄光に満ちた立派な兵士がりうだろうか? こうして小教区はサン・ミゲル(〔ミカエル〕のスペイン語読み)として知られるようになった 
− 


この章は、当時マニラに移住した日本人の様子がまだまだ続きます。


近代以前にマニラに渡ったクリスチャンの日本人というと、高山右近くらいしか知りませんでした。 
思った以上に日本とフィリピンは、古くから繋がりがあったのだと、教えられました。

通常、この手の書籍は、いくら読んでも教科書めいていて、それにやたら難しい表現ばかりなのであまり内容は頭に残らないのですが、この本は文章がとてもわかりやすいのです。

完読してないのに無責任ではありますが、「面白い」です。
「楽しく読める」マニラの歴史です。

さて、この後どう展開してくのやら・・・。



BOOK MANILA ■物語 マニラの歴史 
 ニック・ホアキン著 宮本靖介監訳 橋本信彦、澤田公伸訳
 出版社: 明石書店 / ISBN: 4750322377


  
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February 08, 2006

◇フィリピン、"MANILA" の歴史

 前回の記事《フィリピンの国民的作家》で、故 NICK JOAQUIN(ニック・ホアキン)氏の著書「物語 マニラの歴史」を紹介したところ、フィリピン在住の keen さんからもコメントをいただきました。ありがとうございます。
お役に立てたようで、うれしく思います。

同じようなタイトルの本があるので、こちらも紹介しておきます。

BOOK MANILA 2 

マニラ 都市の歴史 

 出版社: 学芸出版社
 ISBN: 476152149X (1996/03)
 
 Ramon Ma. Zaragoza (原著)、
 城所 哲夫 ・ 木田 健一 (訳)、
 西村 幸夫(監修)



これは、オックスフォード大学出版局刊行の、東南アジアを中心にアジア各地の歴史、文化、生活を紹介する入門書、"IMAGE OF ASIA" (イメージ・オブ・アジア)シリーズの一冊です。
特に邦訳シリーズは、主として都市、建築に分野を絞り、アジア都市の歴史とその住まいの特質を文化的・歴史的背景からわかりやすく紹介しています。

さて、われらがフィリピンの「マニラ 都市の歴史」は、『過ぎし日のマニラは、実に興味深い歴史をもつ。もしその朽ち果てた古代の城壁や建築物がその物語を語ることができたならば、それだけで我々はその血沸き肉踊る物語や果てなき冒険にすっかり魅了されるに違いない』と、読む前から読者をドキドキさせるような著者の「まえがき」ではじまります。

マニラが、16世紀に戦略的な地点に設けられた数千人の小さなマレー人集落から始まり、20世紀には1,200万人の喧噪の大都会へと成長するまでをまとめたものではありますが、城塞都市 INTRAMUROS(イントラムロス)を中心に、かつての都市生活と建築が紹介されています。
写真などイントラムロス関連の資料も数多く掲載されています。


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ついでに フィリピン現地発刊の、イントラムロスのガイドブックを紹介しておきます。(またもや 「AMAZON で買えない本」ですみません。私はマニラの NATIONAL BOOK STORE で買いました。)

BOOK INTRAMUROS 
 ■INTRAMUROS IN & AROUND

 BY RENE B. JAVELLANA
 JESUIT COMMUNICATIONS FOUNDATION, INC
 
 ISBN: 9710305018
 P.Peso 200.-
 
 5つのコースを示した、ウォーキングツアー用の地図が付いています。







☆ちなみに、《フィリピン"MANILA" のお役立ちガイドブック〔2〕》で 既に紹介した”Street-bound: Manila on foot”にも、イントラムロスの歴史や歩き方が詳しく紹介されています。

BOOK GUIDE STREET  
Posted by harana at 21:47Comments(1)TrackBack(0)